短編小説「海」

「俺は魚になりたい。」海洋生物になりたい。広大で果てしなく先が続く海に、溶け込んでしまいたい。そして優雅に、ゆらゆらと何も考えずに波の流れに身を任せていたい。

深海にまで行けばもう誰も俺のことを見てくれなくなるだろう。深く、暗く、底がないようにしか思えない海底を歩いているような感覚だ。地に足が着いているのにふわふわ身体が浮いている。酸素が脳にまで行き渡ってないのかもしれない。

何故おれは「海」にこんなにも惹かれるのだろうか。ましてや、海の一部になれるのならどんなにちんけで稚拙な魚でも良いとさえ思った。別に海の世界でなら、脅威となり得る生物たちに命を授けても(奪われても)それはそれで幸せな生涯だったとも言える。


こんな思考が頭を駆け巡る。いつもじゃない。現実世界で嫌なことがあった時も、消え去りたいと強く願ってしまうほどの時もそうだった。その一方で何か嬉しかった時、怒ってしまった時、寂しさを感じた時も同様に「海になりたい」と思った。ただ漠然と。まるで小さな子供が何の考えもなしに思ったことをそのまま口に出してしまうあの瞬間となんら変わらなかった。それと同じくらいに素直な感情の表れだった。でも、おれはその物思いに耽てしまう時間がこの上なく嫌いだった。立ち向かうべき困難や問題から逃げてしまっているように感じて。朝起きた時から憂鬱で、仕事にも身が入らずミスをしてばかり。同僚や上司にも迷惑ばかりかけて俺のいない所で愚痴を言われているのではないかと気になった。相手の表情ひとつでビクビクするようになってしまった。そんなおれにも唯一気が許せる同僚がいたから、飲み屋に行って気の済むまでくだらない話をして、それまでの鬱憤を晴らすかのように毒もたくさん吐いた。すごく楽しい時間だった。


翌朝、目が覚めた時も憂鬱だと感じながら日課のコーヒーを欠かさず飲んでいた。会社での1日も特にこれといって変化はなく、その後にあった飲みの席での出来事もいつも通りの光景でしかなかった。

次の日は休日で会社に行かなくても許されるという開放感に身を委ねながら物思いに耽る。唯一その日だけはなんとなく1日の流れが変わったような気がしながらも、結局明日もまた同じことをするだろうと思った。

次の日も同じだった。

次の日も同じだった。

次の日も同じだった。

次の日も同じだった。

うん、今日も昨日と同じだった。そしてまた繰り返す。


何度も繰り返していく過程で気付いたことがある。それはおれの生活から表情が消え去っていたことだった。そのことに気付いた瞬間に自分のことが可笑しくて笑いが止まらなかった。あれだけ辛くて悲しくなったり、1人で涙を流していたり、これでもかっていうぐらい大笑いをするほど楽しかった出来事があったはずなのに。

ああ、いや、別に楽しかった訳じゃない。悲しくも嬉しくもなかった。感情なんてこれっぽっちも動いていなかった。そもそも湧いてすらいなかった。心が欠落していたんだ。こんな思考が頭中を駆け巡る。何度も何度も数えきれないほどに。

冷や汗がこめかみを伝う。でもずっと笑顔は崩れなかった。

「おれは人生に愛想笑いをしている」

本当は分かってたんだ、楽しくなんかないって。満足なんかしてないって。逃げ出したいって、変わりたいって。死んでしまいたいとさえ願った。そう思うことだけは一丁前にできた。でもそれしかできなかった。物思いに耽ることだけしか。蓋をして、見ないで、認めないで、知ろうとすることをやめて。

だから嫌いなんだ。そう思えば思うほどにひどく哀れで滑稽に見えてきて、またまた笑いが止まらなかった。可笑しくて笑ってるんじゃない。ただ楽しくて気持ちが良かった。


翌朝、目が覚めると心なしか見慣れた自分の寝室が少し青く見えた。コーヒーを飲もうとリビングに行って、ケトルでお湯を沸かした時の沸騰音が、海に潜っている時に聞こえる呼吸音みたく聞こえた。それをふと「面白い」だなんて思ってしまった。それから少しして、頬杖をつきながら物思いに耽る。

いつもと少しだけ違った。


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